最近、ソロ活という言葉をよく見聞きするようになりました。
20年前に「おひとりさま」と言われていたものに較べると、行ける場所も理解してくれる人も格段に増え、一人で行動するのが好きな私としてはなんだかホッとする時代変化です。

私は、子供の頃から一人で遊ぶのが好きでした。
時々数人で遊ぶのも同じくらい楽しかったです。
でも、どんなに楽しくても、どんなに好きな友人でも、長時間一緒にいると翌日は起き上がれないくらい、とても疲れてしまうのです。
自分でも、理由は分かりません。
今回は、人生にどれくらい「ソロ」を取り入れるのが最も心地よいのかについて、ゆるっと考えてみました。
目次(タップで飛べます)
ソロ流行り
最近、ソロキャンプや一人旅、一人呑みなど、ひとりで楽しむ時間を大事にしたいと堂々と言えるようになったことで、これまで「実はひとり好き」を隠していた人にも、だいぶ生きやすい社会になったと思います。
以前、「一人は寂しいと思っていたけど、どうしても相手が見つからず一人でランチをしてみたらとても快適だった」と言っていた同僚がいました。
反対に、「絶対に一人は嫌だ」という同僚もいました。
どんなに美味しいものでも、一人で食べたら全然美味しくないという人が沢山います。
私は、一人で食べても誰かと食べても、美味しいものは同じように美味しいと感じます。
これは、その人の性質なので、どのような形でも認められるようになってきた最近の風潮は、とても喜ばしいことものだと感じています。
付き合いたくない人からはフェイドアウト
絶賛子育て中の人とLINE交換しようとすると、「LINEはやっていない」と言われることがしばしばありました。
そして、しばらくすると「LINE始めたので交換しよう」と言ってくれます。
おそらくママ友とのLINEで、面倒なことや嫌なことを経験したんだろうな、と想像しています。
ママ友や親戚など、キライだからといってある時期まではフェイドアウトしづらい関係は辛いでしょうね。
でも関係が切れないということは、切ることによって自分にデメリットがあったり、嫌々でも繋がることでメリットがあるからでしょう。
そうであれば、冷たい言い方をすれば、どっちもどっち、と思うこともあります。
デメリットを受け入れられるかどうか
「私はアナタみたいに強くないから、アナタから〇〇さんに言ってよ」と言われたことがありました。
私は決して強いのではなく、自分の発言によって生じる様々なデメリットを覚悟して、その結果幸いにして自分にとって快適な状況を得ていたのですが、私にそう言った彼女は、自分に生じるデメリットは決して引き受けようとせずメリットだけを求め、しまいには私に対して「ずるい」と言い出しました。
このようなことを何度となく経験すると、自然と友達の数は減りますが、それは結果としてよいことだったと思っています。
私は今、絶対に保たなければいけない関係というのはないので、心の負担になる場合には迷わず心のシャッターを下ろすか、さっさと逃亡することにしています。
負担というのは私の受け取り方の問題なので、必ずしも相手が悪いということではありません。
その中には二度と会いたくないと思う人もいるし、いつかまた話をしてみたいと思う人もいます。
ソロでも生きやすい時代になった
私が20~30代の頃は、とくに女性の場合、「一人でいると恥ずかしい、人の目が気になる」と言って、誰かと一緒でないとコーヒーも飲めない…という人も珍しくなかったと思います。
「おひとりさま」になりたいと思っても、人によってはかなり勇気のいる時代だったのです。
私は20代の頃神戸に住んでいて、日曜になると神戸や大阪でウインドウショッピングをしたり、宝塚歌劇を観に行ったり、姫路城や大阪城に行ったりと、朝から晩まで一人でてくてく歩きまわるのが楽しみでした。
途中でお茶もしますし、ランチやディナーも済ませてから帰宅します。ほとんどの場合一人です。
それを職場の先輩に話すと、「日曜日に一人で歩いてるのはアナタだけよ。今度周りを見てごらん」と言われました。
次の日曜に出かけて周りをみていると、なるほど、家族連れか、カップル、親子など2人以上で歩いている人ばかりで、1人でいるのは自分だけだとその時初めて気づいたのです。
それまでは考えたこともなかったのですが、食事をしているときも、周りの人、特に若い女性たちがこちらをチラチラ見ているのが分かりました。
学生時代「周りを見ていない」と注意されていましたが、そんな私だから周りの目を感じることもなく、のうのうと一人で楽しんでいたのだろうと思います。
そういえば、同僚数人で食事をしていたとき「れおさんは、皆といても違う所にいるんだね」と苦笑されたことがあります。
申し訳ないことですが、昔は時々人の話を聞いていなくて、つい自分の空想の世界に飛んでしまっていることが度々ありました…。
でも、その時の同僚たちは有難いことに、「この人は、こういう人なんだ」と受け入れてくれていたので、とても居心地が良かったです。
かといって、私は「世界の村で発見!こんなところに日本人」で取材される人のように、一人で外国に行く勇気はありません。
国内であっても、一人でいることの最も大きなデメリットは安全面です。
だから、私が楽しむのはあくまで安全地帯でのソロ活です。
人間関係における快・不快にはかなりの個人差がある
時々、「一人で行動できるようになりたい」と頑張る人がいますが、一人でいるのが好きか、数人または大勢でいるのが好きなのかは「性格」「向き不向き」によるので、無理に頑張る必要は全くないと思います。
逆に、一人が心地いいのに、無理に友達を作ろうとする必要もないと思っています。
そもそも大勢といるのが「楽しいと感じる」か「ストレスフルと感じる」か、
ひとりを「楽と感じる」か「淋しくて死にそうと感じる」か、
非常に個人差が大きいところです。
「人と行動するのが好き・嫌い」「人から受けるストレスの度合いの軽い・重い」を、それぞれ、1から10までのスケールで表すとしたら、どうでしょう。
人の目を気にせずに自分の位置を指し示すとしたら、友達同士でもその位置はそれぞれ違うはずです。
「集団が好き」「人から受けるストレスは小さい(難なく受け流せる・許せる)」度が高い人は、その対極にいる人に対して得てして「えーっ?」「なんで」「おかしい」という反応をしがち…な気がします。
それが嫌なので、実は一人でいたい人たちも表面的には集団に適応しつつ、機会を見てフェイドアウトしようとしているのではないでしょうか。
集団行動が求められる学校生活
なぜそんなことになるかというと、学校生活においては(多くの職場もそうですが)、みんなと合わせて同じようにできること、みんなと協力して物事がやれること、みんなと仲良くすること、という「協調性」がとても重視されるからです。
そして学校で教え込まれる価値観が、卒業した後になっても、一人でいるときに人の目が気になる原因のひとつなのではないかと思います。
子供の頃は、学校で1人でいると、先生や友達が気を使って仲間に入れようとしてくれます。
また、学校生活においては、ほとんどの事柄が1人で完結することが不可能なので、クラスのグループや友達とある程度は仲良くしておかないととても困ったことになります。
だから、本当はあまり関わりたくないクラスメートでも、表面上はうまくやっておかなければなりません。
大多数の女の子は連れションに代表されるように群れる習性があるので、それに合わない人にとっては面倒なことこの上ありません。
確かに、協力したり、助け合ったり、多くの人と仲良くできることは、学校生活を送るために重要なことですし、社会に出たあとも役に立つでしょう。
一方、人と違うことをしたり、友達と交わらず1人でいたり、違う方向を向いている子供にとっては、なかなかどうして、楽な事ではないのです。
世の中では社交的な人の声が大きく、そうでない人の声は小さいので、報道などを見ても「ひとり」の事例が少ないということもあるでしょう。
とはいえ、「ソロ好き」は全体からみたら少数派ではあっても、おおっぴらにそうであると言わない・言えない人も加えると、潜在的には決して少なくはないと思っています。
人と交わることで学ぶことは確かに大きい
亀の甲より年の劫といいますが、人生の中に無駄なことは一つもないのだと思ったのは、人生の後半戦に入ってからです。
自分以外の人が何を考えているのか、どういう行動をするのかについて色々なパターンを知ることが、人生を生きる上でとても重要だということを大人になってから感じました。
現在であれば、人と会わずにパソコンで孤独に仕事をする、なんていうことも十分可能なのでしょうが、20年くらい前まではほぼ例外なく、人とうまくコミュニケーションをとれることが社会人として必須事項でした。
だから過去どの時代でも存在していたであろうHSPやコミュ障と言われる人たちの多くは、自分の性格を「変えよう」「直そう」ともがいていたのだと思います。
静かにマイペースを貫いていた学生時代、私は「色々な人と付き合ってこそ、人としての学びと成長があるのだ」と親や先生からよく言われていました。
これは後で考えると確かに正しくて、友達から気にかけてもらったり助けてもらったりしたときの嬉しさや、逆に騙されたり利用されたり裏切られたりしたときの怒りや哀しさも、人と付き合ったからこそ経験できたことです。
そして単純に、友達とやりとりする様々な情報の中には、とても有益なものがあります。
若いときに経験した嫌なことも嬉しいことも、今となっては私の大事な「実体験」です。
経験を通した人生の学習があったからこそ自分の中に様々なパターンの「実例集」が蓄積していき、自分がどのような人と付き合いたいか、どのような場合には離れるべきか、何が心地よいか、何が我慢できないのか、の判断ができるようになります。
だから、あまりにも苦痛である場合を除いて、若い頃はちょっと無理をしても人間関係でしんどい思いをすることは、後々とても役に立ってくれます。
とはいえ、職場に嫌な人がいると胃から出血することもあります😰
20~30代の私は、帰宅してからお酒を飲んで布団の中で遠吠えをしたことは数知れません😣
でもそれが、20年後には自分の経験の中の貴重なサンプルとなります。
ある友人のこと
ソロを「独立した個」と捉えるなら、家庭を持っていてもいなくても、友達が多くても少なくても、ソロを楽しんでいる人は大勢いると思います。
「ソロ」というと本人は否定するかもしれませんが、私が尊敬する友人の一人であるTさんと手紙やLINEで連絡をとるたび、彼女の中に「誰かに依存する」という発想は一生存在しないのだろうな、と感じます。
彼女との出会いは大学時代で、すごい美人というわけではないのに(Tさん、ゴメン!!)、とても魅力的な笑顔が今でも印象に残っています。
若い頃はお互いの家に泊まりにいったりして時々一緒に遊んでいましたが、お互いに忙しくなり、リアルで会ったのはもうどれくらい前だったか憶えていないくらいです。
お正月になると、現在は通称名として使っている旧姓で年賀状が届き、小さい文字でびっしりと近況が書かれています。
正職員としての仕事、子育て、親御さんのお世話もありながら、一方で資格試験や英会話、中国語のレッスンに株の勉強と、どうやって時間と体力をひねり出しているのかと不思議に思うようなパワフルウーマンです。
若い頃から常に何かを学び続けていて、更年期を迎えた現在も衰え知らずな彼女から感じることは、人の中にいながらも、きちんと「個」の心を保っているということです。
だからこそ他人も「個」として尊重できるし、楽ではないでしょうが確固とした「自分の世界」も失わずにいられるのだろうなと思います。
彼女とネットで緩く繋がって、時々LINEで近況報告し合うのは、私の楽しみの一つです。
少し前から絵手紙を習い始めたというので、もしや夏の暑中見舞いには彼女の力作が見られるのでは? と、いま、密かに楽しみにしています。
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